カテゴリ:主の再臨



日々の神の御言葉 · 09日 11月 2020
長年にわたり、人々の伝統的な信仰の方法は(世界の三大宗教の一つであるキリスト教においては)聖書を読むことだった。聖書から離れることは主への信仰ではなく、邪教、異端であり、他の本を読んでいても、そうした本の基礎は聖書の解説でなければならない。つまり、主を信じているなら聖書を読まなければならず、聖書の外では、聖書と関わりのない本を崇めてはいけない。そうするならば、神を裏切っていることになる。聖書が存在するようになって以来、人々の主への信仰は聖書への信仰であり続けた。人々は主を信じていると言うよりは、聖書を信じていると言ったほうがいい。聖書を読み始めたと言うよりは、聖書を信じ始めたと言ったほうがいい。そして、主の前に帰ったと言うよりは、聖書の前に帰ったと言ったほうがいいだろう。このように、人々はまるで聖書が神であるかのように、まるでそれが自分たちのいのちの源であって、それを失うのはいのちを失うことと同じであるかのように、聖書を崇める。人々は聖書を神と同じくらい高いものと見なしており、神より高いと思う人さえいる。
日々の神の御言葉 · 04日 11月 2020
人が働くのは、神の旨を満足させ、神の心にかなう人々を残らず神の前に導き、人間を神のもとへ連れ出し、聖霊の働きと神の導きを人間にもたらし、よって神の働きの成果を完全なものにするためである。したがって、働きの本質を徹底的に理解することが必須なのである。神に用いられる者として、すべての人が神のために働く価値をもつ。つまり、誰もが聖霊に用いられる機会を有しているのである。しかし、認識すべき点がひとつある。すなわち、神から託された働きを行う時、人間には神に用いられる機会が与えられてきたが、人間の言うことや知っていることが、人間の霊的背丈とは限らない、ということである。あなたがたにできるのは、働きの過程で自分の欠点をよりよく知り、聖霊からのより偉大な啓きを自分のものにすることだけである。そうすることで、自分の働きの過程において、よりよい入りを得られるのである。神から来る導きを自分の入りと考えるなら、そして自分にもともと備わっている何かと考えるなら、人間の霊的背丈が成長する可能性はない。

キリスト教映画 · 22日 9月 2020
主の信者なら聖書のこの予言は読んだことでしょう。「またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。 」(マタイによる福音書24:30)。そして主が戻られる時は、雲に乗って降りて来られると。しかし聖書には他にも予言があります。「見よ、わたしは盗人のように来る。」(ヨハネの黙示録16:15)。「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイによる福音書25:6)公然と雲に乗って降りて来るという以外に、主はひっそりとお見えになるという予言もあるのです。では主の再臨の真理とは何なのでしょうか?

クリスチャン映画 · 19日 9月 2020
クリスチャン映画「天国への危険な道」抜粋シーン(2) 受肉による神の再臨について、聖書にはその根拠があるのか 主の再臨を歓迎する人の多くは、聖書にある「神は雲に乗って降りてこられ、再臨される」という預言のみに重点を置き、主は肉において再臨なされるという預言を蔑ろにしています。彼らは、神が肉体をもって再臨されるという証はすべて偽りであると断言していますが、はたして彼らの見解と行いは聖書と合致しているでしょうか。受肉による主の再臨に関して、聖書では具体的にどのように預言されているのでしょうか。

キリスト教映画 · 16日 9月 2020
赤い皆既月食はすでに4度ありました。このことは、大災害が間もなく私たちに降りかかることを意味しています。ヨエル書にも同じような予言があります。「その日わたしはまたわが霊をしもべ、はしために注ぐ。わたしはまた、天と地とにしるしを示す。すなわち血と、火と、煙の柱とがあるであろう。ヤーウェの大いなる恐るべき日が来る前に、日は暗く、月は血に変る。」(ヨエル書 2 : 29-31)大災害が私たちに降りかかる前、神の霊はそのしもべやけらいたちを養い、勝利者たちの集団を作り上げるでしょう。

全能神の御言葉 · 14日 5月 2020
六千年間にわたる神の経営(救いの)計画が終わりを告げようとしている。そして、神の国の門は神の現れを求めるすべての人にすでに開かれている。兄弟姉妹たちよ、何を待っているのか。あなたがたが探し求めているものは何か。
全能神の御言葉 · 04日 5月 2020
聖霊の御言葉「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」 全能神は言われます「終わりの日のキリストはいのちをもたらし、変わることなく永遠に続く真理の道をもたらす。この真理を通して人はいのちを得ることができ、この真理を通してのみ、人が神を知り神に良しと認めてもらうことができる。