書籍
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20日 7月 2020
聴きなさい!これは誰の言葉?
教会の牧師として、霊的な貧困化と説教することが何もないことほどつらいことはありません。集会に来る兄弟姉妹がどんどん減っていくのを見て、私は無力感を感じ、主の前に行き何度も繰り返し真剣に祈り、兄弟姉妹の信仰を強めてくださいとお願いしました。しかし教会の荒廃化は一向に改善せず、私ですら弱ってネガティブに生きるようになっていきました。
ある日、自宅で仕事をしていると、王(ワン)兄弟と林(リン)兄弟が突然やって来たので、喜んで迎え入れました。挨拶を交わした後、王兄弟が「周姉妹、現在の霊的な調子はどうですか」と言いました。私はため息をついて答えました。
「それを言わないで。今、私は霊的に弱っていて、説教で何も話すことがないの。兄弟姉妹もみなネガティブで気力がなくなっているわ。もう教会にはほとんど誰も来ないのよ」
林兄弟が訊きます。
「周姉妹、なぜ説教で話すことがないのか、なぜ教会にほとんど誰も来ないのか、わかりますか?」
そう言われてすぐに、私は思いました。
「それこそ知りたいことよ。なぜなのかを本当に知っているとでもいうの?」
そして「なぜ?」と急いで尋ねました。王兄弟が言いました。
「主が既に再臨されたからです。二度目の受肉をされ、御言葉を発し新たな働きをされているんです。神の国の時代の神の働きを受け入れた兄弟姉妹は既に大勢いて、聖霊の最新の働きの流れの中に生きています。皆の状況はどんどん良くなっています。神の新たな働きに後れを取っている人たちは聖霊の働きを失い、そのため説教する言葉もなくネガティブになり気力を失くしているんです。急いで神の足跡についていかなきゃなりません」
これを聞いて私はふと先輩牧師の言葉を思い出しました。
「神が新しい働きをするためにお現れになったとか新しい言葉を発せられているとか言う人がいたら、それは聖書から外れており、聖書から外れているということは主を信じていないということです。それは背教です」
この言葉を思うと、私は非常に深刻に言いました。
「先輩たちが私たちによく話していない? 聖書から外れることは主を信じていないことになるって。聖書から外れるのは主の道からも外れることだって、肝に銘じておかなければ。私にそんな説教するなんて、どういうつもり」
こう言って私は怒りながら立ち上がりました。林兄弟が言いました。
「周姉妹、興奮しないでください。あなたが神を心から信じていて熱心だとわかっていますよ。だからこそ神の新しい働きのことをあなたに話しているんです。私たちはこんなに長年主を信じてきたでしょう。主の再臨をずっと心待ちにしてきたじゃありませんか。今や主は再臨され、終わりの日の裁きの働きを実行されているんですよ。これはすごいニュースです。真面目に求め吟味するべきで、主を歓迎する機会を逃すわけにはいきませんよ」
林兄弟が言い終わるのを待たずに私は手で制して大声で口を挟みました。
「やめて。やめてやめて! これ以上言わないで。そんな聖書から外れたことなんて信じないわ。あなたたちは主の道に従わないけど、私は従わなきゃ」
二人は私が全く聞く耳を持たないとわかり、立ち去るしかありませんでした。その後、二人は何度かうちに来ましたが、私はとにかく彼らを無視しました。
しばらくして、王兄弟と林兄弟は姉妹を二人連れて私の自宅に来ると、私に福音を伝えました。その日、私は家で豆を摘んでいて、夫は外で作業をしていました。夫は彼らを見ると家の中に招き入れました。私は彼らを見るなり心臓がどきどきし始めました。
「なんでまた来たの? 二人の援軍まで連れて」
四人は家の中に入ると私に挨拶し、それから夫に説教をし始めました。私はさらに不安になり、思いました。
「彼らの説教は聖書から外れている。夫を見守って、何も鵜呑みにさせないようにしなきゃ」
彼らを追い出したかったのですが、夫が私に腹を立てないかというのが心配でした。ただ黙っているしかありませんでしたが、彼らの言うことは一切信じませんでした。なのに夫は耳を傾け、うなずき、「おお、その通りだね。そうだ。そういうことなんだね。説明がわかりやすいね」と言わずにはいられないようでした。言いくるめられている夫を見ていると、急に怒りがこみ上げてきて、夫を指さしながら、きつい調子で言ってしまいました。
「何が『そうだ』よ。あなた聖書をどれだけ読んだの? どれくらい神を信じてきたの? 主に祈ったことがあるの? 『そうだ、その通り』って言うけど、どれだけ理解してるのよ?」
こんなふうに騒ぐ私に、その場は急に静かになり、彼らは互いに顔を見合わせました。夫は慌てて「大声を出すなよ。まず話を聴こう。聴かないと正しいか間違いかわからないだろ」と言いました。夫に彼らの話を聴くのをやめさせられないとわかった私は怒って、両手で豆を大きく揺さぶりわざと大きな音を立てて、こう思いました。
「話を聴くですって。何も聞かせやしないわ。もうおしまいにしてやるわ」
しかし豆で大きな音を立てても夫は彼らの説教を聴くのをやめません。それどころか、夫は彼ら四人と話し、笑い、彼らの話しはこの上なく和気あいあいとしています。しばらくして夫が嬉しそうに私に向かって言いました。
「なあ麗。主は本当に再臨されたんだよ。この本の言葉は神が直接話された言葉なんだって。すごいよ! 麗、何か料理して僕たちに出してくれよ」
私は夫をちらりと見て、答えませんでした。やがて林兄弟がテープを何本かと讃美歌の本と『言葉は肉において現れる』を一冊、夫に渡して帰っていきました。私はもう我慢できず、夫に言いました。
「先輩たちがどれだけ私たちに、神を信じるには聖書から外れることはできないって、聖書から外れることは神を信じていないのと同じだって言ってきたか、あなた忘れたの? なんでその立場を守れないのよ」
夫はためらわずに答えました。
「彼らの言うことは聖書から外れているんじゃなくて、聖書よりもっと高尚で深いんだ。それに、彼らが広めてる神の新しい働きは、主の御言葉や黙示録の預言を成就している。彼らの説教を聴いて、聖書の中でこれまで理解してなかったことがたくさん理解できたし、はっきりした。彼らが証しする全能神の福音は真理の道だ。君も目を開いて見てごらん。僕たちの教会にはもうほとんど人がいないだろう。教会は荒廃してしまった。それでも君は先輩たちの言葉にこだわっている。馬鹿げているとは思わないの。君も急いてこれをよく見るんだね」
これを聞いて私は怒って言いました。
「あなたに何がわかるの? 聖書から外れることは主を裏切ることよ。あなたが聖書に従わなくても、私は従うわ」
それから毎日、夫は時間ができるとすぐに林兄弟がおいていった本『言葉は肉において現れる』を読むようになりました。ある日、夫はこの本を読むために日の出前に起きました。うとうとしていると本を読む夫の声が聞こえました。
「あなたは忘れてしまったのか。……忘れてしまったのか」(『言葉は肉において現れる』の「ペテロはどのようにしてイエスを知るようになったか」より)
朗読している夫に少し腹が立ち、「こんなに朝早く、人を起こして!」と思いました。しばらくすると、かすかにこう聞こえました。
「それは、十字架につけられる前にイエスがペテロに『わたしはこの世の者ではない。あなたもこの世のものではない。』と言ったからである」(『言葉は肉において現れる』の「ペテロはどのようにしてイエスを知るようになったか」より)
おかしいわね。なぜこの本に主イエスのことが書かれているの? 聞き間違いかしら? けれど、次ははっきりと聞こえたのです。
「あなたは忘れてしまったのか。……忘れてしまったのか」
これが聞こえた時、私は心が少しかき立てられて、もう眠れなくなりました。
「これは誰の言葉? おお神よ! これはあなたから私への問いかけなのですか。あなたが私に向かって仰っているような気がします。なんて優しい言葉でしょう。急いで起きて朝食を作らなきゃ。朝食の後、とにかくあの本に何が書いてあるのか見よう。実際に聖書から外れているのかどうか、あれが神の言葉なのかどうかを」
朝食後、夫はまた例の本を読み始めました。私は「夫はなぜ一緒に読もうと言わなかったの」と思いました。私は長いこと戸口に立っていましたが、夫は本に没頭して私に気づきません。なので私は台所をうろうろしました。とても気になったのです。あの本に何が書いてあるのか、読みたくてたまりませんでした。それで台所から顔をのぞかせると、夫がまだ夢中で本を読んでいるのが見えました。私もそばに行って読みたかったのですが、兄弟姉妹が私に説教しようと何度も訪ねてきたことと、私が毎回それを拒否していことを思うと、自分から本を読みだしたら夫に非難されはしないかと思いました。そうなると、とても気まずく感じるでしょう。そう思って、私は引っ込んでしまいました。家の外をうろうろしていると、朝に夫が朗読していた言葉が思い出され、もっと気になりました。「こうしちゃいられない。あの本に何が書かれているのか確かめなければ」と思いました。でも家の扉の所まで来るとやっぱりやめてしまいました。そわそわして、どうしたらよいのかわかりませんでした。ついに意を決しました。
「そうよ、神は私が率直に話すことをお望みよ。あんな物言いしろと、夫の助言を聞くなと、誰が私に命令したというの」
それで私は気を引き締めて部屋に入り、勇気を出し、ぎこちなくも言いました。
「私も一緒にその本読んでもいい?」
夫は顔を上げて、とても驚いたように私を見ましたが、顔を輝かせて言いました。
「おう、おいでよ。一緒に読もう」
この瞬間、私はこの上なく感動しました。夫は私が想像したように非難したりはしなかった。私の不安な心はようやく落ち着き、私は夫と一緒に楽しくその本を読みました。でも、その時に読んだのはその日の朝早くに耳にした言葉ではありませんでした。ちょうどその時、夫が外に出たので、私は急いでその本のページをざっとめくりました。探していた部分はすぐに見つかり、嬉しくなって声に出して読みました。
「ペテロはイエスの言葉で大いに励まされた。それは、十字架につけられる前にイエスがペテロに『わたしはこの世の者ではない。あなたもこの世のものではない。』と言ったからである。後に、ペテロが苦悩の絶頂に達したとき、『ペテロよ、あなたは忘れてしまったのか。わたしはこの世のものではない。わたしが早く去って行ったのは、わたしの働きのためだけだ。あなたもこの世のものではない。忘れてしまったのか。あなたに2度言ったが、覚えていないのか。』とイエスは彼に思い出させた。ペテロはイエスの言葉を聞いて『私は忘れていません!』と言った。それからイエスは言った。『あなたは天で一度わたしと幸せな時を過ごし、わたしのそばでしばらく過ごしていた。あなたはわたしがいなくて寂しく思っているが、わたしもあなたがいなくて寂しい。わたしの目には被造物は言うに値しないが、純朴で愛しい者をどうして愛さずにはいられようか。あなたはわたしの約束を忘れてしまったのだろうか。あなたは地上でわたしが与えた使命を受け入れなければならない。わたしが託した任務を果たさなければならない。いつかあなたを必ずわたしのそばに導くであろう。』」(『言葉は肉において現れる』の「ペテロはどのようにしてイエスを知るようになったか」より
この部分を何度か読みましたが、読めば読むほど、この言葉は聖書から外れてはいないと強く感じました。ただ聖書よりも明確でわかりやすいのです。でも先輩牧師は言っていました。
「神が新しい働きをするために現れるとか神が新しい言葉を発するとか言い広めるのは誰であれ聖書から外れており、聖書から外れることはすなわち主の道から外れることだ」
でも彼らが言ったことは事実と符合していないのではないでしょうか。私は心の中で祈りました。
「神よ、これは一体どういうことなのでしょう。どうか御意志を理解できるよう、私を啓いてお導きください……」
その後、私はこのような全能神の言葉を読みました。
「長い間、人々の伝統的な信仰の方法は(世界の三大宗教の一つであるキリスト教においては)聖書を読むことであった。聖書から離れることは、主を信じることではない。聖書から離れるのは邪教、異端であり、他の本を読んでいても、そうした本の基礎は聖書の解説でなければならない。つまり、主を信じると言うのなら、聖書を読まなければならないのだ。聖書を飲み食いし、聖書の外では、聖書と関わりのない本を崇めてはいけない。そういうことをするのは、神への裏切りだ。聖書が存在するようになって以来、人々の主への信仰は聖書への信仰である。人々は主を信じるという代わりに、聖書を信じると言ったほうがいい。聖書を読み始めたと言うよりは、聖書を信じるようになったと言うほうがいい。そして、主の前に帰ったというよりは、聖書の前に帰ったと言うほうがいいだろう。このように、人々はまるで聖書が神であるかのように崇め、まるでそれが自分たちのいのちの源で、それを失うことはいのちを失うことであるかのようだ。人々は聖書を神と同じくらい高いものと見ているが、神より高いと思う人々さえいる。人々は、たとえ聖霊の働きがなくとも、たとえ神を感じられなくとも、生きていける──しかし、聖書を失くしたり、あるいは聖書の有名な章句を失くしたりすると、すぐに、まるでいのちを失ったかのようになる」(『言葉は肉において現れる』の「聖書について(1)」より)
神の言葉は本当に私の心に響きました。これは実際、私のことを言っているのではないでしょうか。主を信じるようになった時のことを思い返すと、まさに私自身の信仰の守り方がこうでした。私は聖書を自分の生命の源として扱ったのです。聖書を読んだ後は毎回、子どもたちの手が届かないように聖書を高い所に置かずにはいられませんでした。聖書を他の何よりも上にあるものと見なし、聖書から外れることは主を裏切ることだとさえ思っていました。このようにするのは間違っていたのでしょうか。求める心で「聖書について(1)」から「聖書について(4)」まで読み進めました。読めば読むほど自分が啓かれていくように感じました。聖書は神の働きの歴史的記録であり、神の働きのうち最初の二段階の証しに過ぎないのだとわかりました。旧約聖書が世界の創造から律法の時代の最後までのヤーウェ神による働きを記録しているように、新約聖書は恵みの時代の主イエスの働きを記録しているのです。神の働きは常に新しく、決して古くならず、常に前進しています。今、神は聖書の外で新たな働きをされています。神の国の時代の働きです。この働きの段階が、神による人類救済の最後の段階です。律法の時代から恵みの時代へ、そして終わりの日の神の国の時代へ、三段階すべてが唯一の神になされます。全能神の御言葉を読んだのは、私にとって大きく目が開かれる体験でしたし、御言葉は私の目にとって大いなる喜びでもありました。そうです。神はかくも全能で知恵があるのだから、聖書に記録されている限られた働きだけなされることがありえましょうか。それに全能神の御言葉から私が悟ったのは、終わりの日の神の御言葉と働きは聖書を否定するものではないということです。それどころか聖書に記録された律法の時代の働きと恵みの時代の働きをさらに高め、深めるもので、神が現在行っておられることはすべて人々が現在必要としているものによく符号するのです。神の御言葉の一節にこうあります。
「なぜ今日、聖書を読まないように言われるのか、なぜ聖書とは別の働きがあるのか、なぜ神は新たな、より詳細な実践を聖書に求めないのか、なぜより偉大な働きが聖書の外にあるのかを理解しなければいけない。これをみな、あなたたちは理解する必要がある。新旧の働きの違いを知らなければいけない。聖書を読まないが、聖書を分析できなければいけない。そうでなければ、まだ聖書を崇めていて、新たな働き、新たな変化に入るのが困難になるであろう。より高い道があるのに、なぜ低い、旧式な道を学ぶのか。新たな言葉、新たな働きがあるのに、なぜ古い歴史的記録の中で生きるのか。新たな言葉はあなたに必要なものを与えることができる。つまり、これが新しい働きであることの証明である。古い記録は十分な満足を与えたり現在の必要を満たすことができない。このことは、それが歴史であり、今現在の働きではないことを示している。最も高い道は最も新しい働きだ。そして、新しい働きは、どんなに過去の道が高くとも、それは人々の思考の歴史であり、参考としての価値がどれほどであってもそれは古い道なのだ。たとえそれが『聖なる書』に記されていても、古い道は歴史だ。たとえ『聖なる書』に記録されていないことでも、新たな道が今現在のものなのだ。この道はあなたを救う。そして、この道はあなたを変える。これは聖霊の働きだからだ」(『言葉は肉において現れる』の「聖書について(1)」より)
これを読んだ瞬間、突然光が見えました。そして、なぜずっと聖書を守ってきたのに、霊的にどんどんネガティブになっていき、説教で話すことがなくなるまでになってしまったのかを悟りました。兄弟姉妹もどんどん気力がなくなり、ついには集会に参加しなくなってしまった一方で、全能神の国の福音を受け入れた兄弟姉妹は信仰に満ちていることも実感しました。私がどのように彼らを扱おうと、彼らは決してネガティブになったり落胆したりせず、なおも私に福音を伝えようと繰り返し訪ねてきました。それは私が執着していたのが神の過去の働きだったからです。その働きはとうの昔に聖霊の働きを失った古い道でした。しかし全能神教会の兄弟姉妹は神の新たな働きに導かれることを受け入れ、神の現在の御言葉の糧を受け取り、聖霊の働きを得ていました。これが、新しい道と古い道の違いなのです。そしてこれが宗教界が衰退し、全能神教会がどんどん繁栄していく根本理由だったのです。私は祈りました。
「主よ、あなたが本当に再臨されたこと、私たちに新しい道、新しいいのちの糧を与えてくださったことを今ようやく理解しました。感謝します」
この時、私の気持ちは喜びと後悔との板挟みになっていました。私があんなに不従順で反抗的だったのに、神が私をお見捨てにならなかったのが、また、夫が御言葉を朗読して私に神の声を聞かせるという特別な方法を神が用いてくださったことが嬉しかったのです。これはまさに私への神の愛、神の救いでした。後悔したのは、主の再臨を長年楽しみにしてきたのに、神が再臨され私の家の戸を叩かれた時に自分がまさかそれを拒否しようなどとは思いもしなかったからです。あの兄弟姉妹が私に福音を伝えるために繰り返しはるばるやって来てくれたのに、私は彼らをただ無視したのです。彼らは私の夫と話してくれたのに、私はそれを馬鹿にし、わざと邪魔したのです……それを思い出すと私の心は痛み、涙があふれるのを止めることができませんでした。神の前にひざまずき、祈りました。
「全能神よ。私が間違っていました。こんなに長年つねに聖書を守り、聖書から外れることは神を信じないことだと思っていました。聖書を神として扱い、あなたの新しい働きを何度も何度も拒絶し、あなたの再臨を拒絶しました。私は何も見えていませんでした。今は喜んで聖書を脇に置いて、あなたの新たな働きに従い新時代の御言葉を聴きます。あなたに敵対することはもう決してありませんし、自分の観念と想像のせいで一生を台無しにしたくはありません。おお神よ、私はあなたと協働し、真に神を信じる教会にいる人たちを連れ戻してあなたの家族にし、ご恩に報いると決意します!」
中国 周麗(ジォウ・リー)
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