江西省 劉恒
私は、神の恵みと引き上げにより、教会のリーダーとしての責任を引き受けました。当時、私はとてもやる気に満ちており、神の前で次のように決意をしました。「どんな事に直面しようとも、私は自分の責任を放棄しません。他の姉妹と上手く協力して真理を求める人になります。」しかし、私は単に決意をしていただけで、実際にはどのようにして調和のとれた仕事関係の現実に入ることができるのかを知りませんでした。ペアを組んだ姉妹と最初に働き始めた時や、彼女と意見の食い違いがあった時、口論になった時など、私は自分のパートナーを非難しないよう、神に私の心と魂を守ってくださるよう意識的に祈りを捧げました。しかし、私はパートナーと衝突しないよう、自分の行動をコントロールする事をのみに意識を向けていたため、真理に入る事ができていませんでした。したがって、時間が経つにつれ、この姉妹とはますます衝突するようになりました。ある時、私は、ある姉妹を神の御言葉の伝道の働きへと昇格しようとすると、一緒に働いていた姉妹がこの姉妹は不適格だと言いました。候補者を変えた後も、この姉妹は依然として不適格であると言い張りました。これをすぐさま不快に感じた私は、苛立ちを露わにこう言いました。「あなた以外は全員が不適格なんですね!」この結果、もう私は二度とこの話を持ち出しませんでした。しかし、彼女がこの件を持ち出してきた時、私は激怒して彼女にこう言いました。「誰でも好きな人を選べばいいでしょう。私はもう知りません!」これ以降は、彼女が何を言ってきても、意見の相違あれば、私は何も言わない様にしました。衝突しないで済むように、心の中に意見を押し隠していたのです。心の中に抑え込むのが耐えられなくなったら、どこかに隠れ、ひどい扱いを受けたと感じながら泣いていました。最終的には、この状況の改善などどうでもよくなり、「あなたが出来るんでしょう。ならば、自分でやれば良いじゃない。やりたい様にやりなさい。恥じをかくところを見てやる!」と思いました。私は彼女をバカにしてやりたいという悪意に満ちた態度を持つようになりました。その後、ある時、私は地域で使用するためのアパートをある姉妹に借りさせました。私はそれを見て、上手く行くと思いました。その地域の姉妹をそこへ連れて行き、家賃の支払いも全て済ませました。これについては全て私が単独で決断し、調整しました。私はこれにとても満足し、一緒に働いているあの姉妹も私を褒め、安心させてくれると思いました。予想外にも、私のパートナーはこれを受け入れず、私は鍋で水を浴びせられた気分にさせられました。彼女はこう言いました。「そんな事絶対に認めません!そのアパートは理想的な階にありません!」これには、本当に私の神経を逆なでし、こう思いました。「あなたはアパート全体を見てすらいないのに、よくもそんなきっぱりと却下できるわね。思い上がるにも程がある!」結果的に、それぞれが自分の意見に固執し、互いに譲らない状況となりました。その後、私は神の御言葉の交流にすら耳を傾けず、これについて考えれば考えるほど、彼女が間違っているとますます感じるようになりました。彼女は先輩としての立場を悪用し、私に面倒な状況を意図的に作っていたのです。彼女の事をずっと我慢してきたのに、彼女は依然として私をこんな風に扱う事にも頭を悩ませました。……これについて考えれば考えるほど、私はますます不当な扱いを受けていると感じるようになり、ついには完全に暗闇の中に取り残され、聖霊の働きを失ってしまいました。それ以降、私は彼女とは一緒に働きたくなくなりました。私は、「もう対応するのは困難だから、隠れていよう」と考えたのです。その時私は、このような状況は非常に危険である事も分かっていました。私は、何か悪い事をしてしまう前にできるだけ早く任務変更の申請を出し、彼女には他の誰かと働いてもらった方が賢明だと考えました。結果的に、私は自分の霊的背丈の低さと能力不足を理由に辞表を書き、総務グループに提出しました。その後間もなく、私は地域のある姉妹に会った時に自分が辞職について伝えました。その時彼女は、自分の失敗を認めて辞職する事の原則、および神が人々をお救いになる事に注ぎ込まれる大変な配慮についても話してくれました。しかし、私は頑なになり、これを受け入れようとしませんでした。
翌朝、ベッドから起きた時、私の頭の中は真っ白でした。神は私をお見捨てになられ、もはや私を求めておられないように感じました。私の行いにより神は私を嫌悪されたに違いないと、私は怖くなってパニックになりました。この結果、私は自分自身を見つめ直し始めました。これまでに起こった事全てについて考えた後、自分の性質が神に私を嫌悪させたと分かったのです。私の思考と行動は正に未信者のようであり、私はまるで昔から変わらずにいる老悪魔、サタンの様に生きていました。私は神の御言葉に従って行動しておらず、神に対する敬虔の念も持っていませんでした。私は全く真理を受け入れている人ではありませんでした。結果的に、私はサタンに騙され、知らぬ間に自分の責任を放棄していました。これに気が付いた私は、すぐさま神の前に平伏し、このように悔い改めました。「ああ、全能神よ、私は間違っていました。私は神を信じてはいましたが、神の働きを受け入れようとしていませんでした。神がわざわざ私の環境を用意してくださったにもかかわらず、私はそれを受け入れようとしていませんでした。私は、神の刑罰と裁きを受ける事を全力で免れようとし、神が私に愛を差し伸べてくださった時、私はそれに感謝しないばかりか、神に対して不平を言い、さらには神を誤解までしていました。私の行動は神に苦痛を与えました。ああ、神よ、神が働きの中で私に啓示を与えてくださり、私の内にいるサタンの性質に気付かせてくださった事を感謝いたします。これが起っていなかったら、私は依然として自分は悪くないと思い、自画自賛の日々から抜け出そうとしていなかったでしょう。この事で私は自分の霊的背丈が実に低いという事がよく分かりました。私は極めて小さな苦難ですら乗り越える事ができません。私は、神を裏切る事だけを考え、神との誓いを放棄してしまいました。ああ、神よ、私は悔い改めます。神の御言葉を通して自分自身を知り、神の御言葉による裁きと刑罰をお受けます。もう、神に対して頑なな態度をとったりはしません。今後は、私の置かれた環境の中で神に服従し、あの姉妹とも仲良く協力していきます。ああ、神様、私は、神が私を求めておられようと、そうでなかろうと、私を御遣いになろう、そうでなかろうと、これ以上サタンの影響にコントロールされながら生きていきたくありません。私は辞表を取り消す事にしました。私は今後、自分の尊厳のために生きるのはやめ、一度は神の御心を満たしたいと思います!」祈りを捧げた後、私の目は涙でいっぱいになりました。私は顔を洗った後、総務グループに足を運び、辞表を取り消し、それをその場で細かく破りました。その日、皆で集まった時、私達数人で一緒に神の御言葉を読みました。「あなた方の評判は崩れ、振る舞いの品格が落ち、話し方は卑しい。あなた方の人生は卑怯で、人間性は全て卑しい。他人に対して心が狭く、些細なことまでことごとくゴネる。自分の評判や地位のためには口喧嘩も辞さず、そのためには地獄や火の湖にまであえて落ちるほどだ。」(『言葉は肉において現れる』の「あなた方の性格は卑しすぎる」より)「人々は自らに多くを求めませんが、他人に多くを求めます。人々は忍耐強く、我慢強く、他人を大切にして、養い、微笑みかけ、親切で、譲らなければなりません。人々はいろいろな面で他人を気にかけねばならず、厳しくできず、怒らせるようなことや、好きではないだろうことを行えません。人の道理があまりにも欠けています。」(『キリストの言葉の記録』の「常に神に要求している人々は最も理性に欠けている」より)神の御言葉は私の不名誉な状況と悪魔の様な姿を明らかにしてくださいました。私は地面の割れ目に入り込んでしまいたいくらいに恥ずかしくなりました。そして、明らかにされたものと神の御言葉の御啓示を通して、自分の中にあったサタンの性質はとても深刻なものであったと知いました。とても傲慢でうぬぼれた本性を持っていた私は、他の人よりも優れていると思っていました。自己認識が全くできていなかった私は、自分が他の人より優れいない事に気が付きませんでした。だからこそ、あの姉妹と一緒に働いていた時も、私はいつも自分が責任者で、リーダーだと考えており、あの姉妹が全てにおいて私に従い、私の言う事を聞いて欲しくてしかたがありませんでした。私は、いつも自分が指導者だと思っていました。あの姉妹の意見が私の意見と食い違う時、私は真理を求めて彼女との衝突を解決したり、共通の理解を見いだしたりしようとしませんでした。それどころか、私は、不満を発散させるために職場を離れようと考えるほど面目を失ってしまったため、激怒し、反抗的な態度をとっていました。私はこの姉妹に対する先入観を持ち、彼女との不良な関係を改善しようとは考えもしませんでした。一緒に働いていた時、私はいつも彼女に対して尊大な態度を示してきました。私は、自らが変わるようにと自分に要求する事はなく、彼女と率直な話し合いをする事を拒絶し、彼女に対する愛情を全く持っていませんでした。彼女にばかり集中し、彼女が変わる事を要求していたのです。私は、自分は真理のマスターであるけども、他の人々は堕落しているとみなしていました。私は、彼女と一緒に仕事をしていた間、自分を見直す事はありませんでした。この姉妹が反抗的である時や、私達の間に意見の食い違いがあれば、私はそれを全部彼女のせいにしていました。私は、彼女は間違っているけど、自分は正しいと信じていたのです。そのため、私は、心の中で彼女を見くびり、彼女をまるで敵の様に扱い、恥じをかくところを見たいと思うほどに差別していたのです。自分の傲慢さ、野蛮なプライド、非常識さ、浅ましい姿、そして偏狭な行動に気が付いた今、私の中に普通の人間性が持つ正気が残っているとはとても思えません。私はサタンに驚くほど似ていました!そして私は全く不合理でした!神は私を引き上げ、責任を担う機会を与えてくださったにもかかわらず、私はあの姉妹と協力して本分を尽くし、神の御心を満たそうと考えていませんでした。私は、一日中、正直な仕事をせず、あの姉妹に対する策略を企み、彼女と嫉妬混じりの口論ばかりしていました。自分の不満について口論しては、自分の尊厳と虚栄心をめぐって喧嘩していたのです。こんな私に理性的な良心があったでしょうか。私は真理を追い求めていたでしょうか。あの姉妹と私は、最初から仕事において互いに譲らず、支え合おうともしていませんでした。むしろ、別々に指揮をとって勝手な事をしていただけなのです。私はキリストの敵の道を歩んでいたのではないでしょうか。キリストの敵のような生き方をして自滅に向っていたのではないでしょうか。今日、私は、自分の行いは利己的な肉の欲求に完全に支配されていた事が分かりました。私の本性はあまりにも利己的で浅ましいものでした。私は真理を追い求めていなかったため、何年も神を信じて生きてきたにもかかわらず、何の現実性も得られず、自身の性質に僅かな変化すら起こせませんでした。もし神が私を哀れに思われず、愛情に満ちた手を差し伸べてくださらなかったら、そしてあのまま事が進んでいたとしたら、私は間違いなく炎の池に落ちる者へと堕落していた事でしょう。神は、私達が自分達の人生において神の御言葉を実践する事を求めておられます。しかし、私は自分の本分を尽くす事から自らを切り離していました。私は正に不信心者です!このような形で生き続けることはできず、真理を求めて自分を変えたくなりました。
後に、私は神の次の御言葉を読みました。「教会で協力して働くあなた方がお互いから学び、意思疎通を計り、お互いの欠点を補い合わなければ、どこから学ぶというのだろうか。何か事が起きたならば、お互いに交わり、いのちの益となるものを得るようにすべきである。……あなた方は神の働きを目的として、教会の益のために、そして兄弟姉妹を励まして前進させるために、調和をもって協力しなければならない。あなたは相手と協力し、相手もあなたと協力し、互いに誤りを正し、働きが更に良い結果をもたらすようにし、そのようにして神の旨に配慮すべきである。そうすることのみが真の協力であり、このような人々のみが真に霊的に成長することができる。……各自が奉仕する者として、自分が成すあらゆる事で、自己の利益を考えるのではなく、教会の益を守ることができなければならない。互いに密かに攻撃し合い、自分ひとりで行動するようなことは受け入れられない。このように行動する人々は、神への奉仕に相応しくない。」(『言葉は肉において現れる』の「イスラエルの民のように神に仕える」より)兄弟の説教で次のような話がありました。「共に働く上で、上下関係は関係ありません。二人は同等の立場にあり、共通の理解を持つために真理をお互いに話し合うべきです。これにはお互いに従い合う事が求められます。すなわち、真理に服従する原則により、正しくかつ真理に従って話をする人には従うべきなのです。真理は権威であるため、真理を話し物事を正しく捉える事ができる人には従うべきです。何を行うにしろ、どの本分を尽くすにしろ、全ては真理に服従する原則に従って行うべきです。」(『全能神教会の働きにおける采配の紀要選集(二)』の「神の家が成立した教会での生活における10個の原則の意義と説明」より)私は、交流と神の御言葉を受けて、任務の調整をどのように実践すべきかが分かりました。それは、神の心を考慮し、共に働きながら神の家族にとって大切な事を守るという事です。何をする場合も、何の働きであろうと、その全ては共通の理解に至る事ができるように真理を話し合い、真理に服従した形で取り組むべきです。自分自身の意見を貫こうとしたり、他の人に自分の言う事を聞かせようと傲慢になったり、うぬぼれてはなりません。真理を犠牲にして人間関係を守ろうとしてはなりません。また、主体性を作り出す上で個性にこだわってはなりません。そして、調和のとれた協力関係を築くには、謙虚な態度で私欲を率先して自制し、お互いから学び、お互いの欠点をカバーし合う必要があります。このような真の協力関係に入り、全てにおいて心と魂を一つにして神の御心を満たし、お互いの欠点をカバーし合って初めて神の祝福と御導きを授かる事ができ、結果的に教会はその働きにおいてより優れた結果を出す事ができます。その過程で、私達自身のいのちにおいても利益を得る事ができるのです。逆に、人と働く際に傲慢な態度をとったり、真理の原則を求めず、独裁主義で他の人を操ったり、単独で働き自分自身のみに頼りながら働いたりすると、あなたは神から忌み嫌われ、神の教会に損害を及ぼす事になります。それにもかかわらず、私は傲慢で常に最終決定権を握ろうとしていました。どうして私は、神の家族の働きは一人の人間が単独で成し遂げられるようなものではないと分からなかったのでしょう。人々は皆、全く真理を得られておらず、あまりにも真理を欠いています。自分のみに頼り、何かをしようとするとアクシデントが起きやすくなります。協力し合って働いてのみ、聖霊の働きをより多く得、互いの不足を埋め合わせ、ミスの発生を防ぐ事ができるようになります。この時点で、私は、自分自身の傲慢さと利己的な姿勢に露見されたサタンの性質、そして神の御心をほんの僅かも考慮していなかった事やひどく無礼な振る舞いを披露してしまうほどに自分の面目を守ろうとしていた事について、罪悪感と自責の念を感じずにはいられませんでした。私は盲目かつ愚かすぎました。私は、自分が任務の調整を実践できる環境を作ってくださった神の御意向を理解していませんでした。それは、自分の欠点を補うためにパートナーの長所からどのようにして学ぶのか、協力して働くことを通して自分が必要なものをどのようにして学ぶのかについて、全く理解していないほど酷かったのです。その結果、教会は損害を受け、私自身のいのちにおける成長も遅れてしまいました。神の哀れみと御言葉の光を受けていなかったら、今日、私は我執に囚われたままで、自分は他人より優れてなどいないと知る事もなかったでしょう。まるで教会の働きを自分でこなせるかのように、依然として人が自分の言う通りにする事を望み続けていた事でしょう。最終的に、どのような大惨事につながっていた事でしょう。この結果、私はある決意をしました。私は神の御言葉に従い行動し、教会の働きおよびいのちにおける自分自身の成長を遂げるため、あの姉妹と共に仲良く働き、今後は利己的な事を考えないようにします。
その後、私は一緒に働いていた姉妹に自分の事を知る事ができたと打ち明けました。私達はしっかりと話し合い、共に働く原則に入る事ができました。それ以降、私達の仕事は以前よりもかなり調和が取れるようになりました。意見の食い違いがあった時も、私達は真理を得られるように祈りを捧げ、神の御心を求めました。お互いの欠点を見つけた時も、お互いを思いやり、許し合う事ができました。私達はお互いに愛情を持って接する事ができるようになりました。私達は、それとは知らずに、神の祝福を感じ、福音の伝導業務は以前よりも多く成果を出すようになっていました。この時点で、私は自分が持っていた堕落の本性をさらに強い嫌悪感を抱くようになり、真理を求めず神を沢山失望させてしまった事に嫌悪感を抱きました。私はやっと真理を実践する事の満足感を味わう事ができ、同時に、自分の本分を尽くし、神の御心に安心していただけるための力を実感する事ができるようになりました。今後私は、真理の他の側面の実相にも入り、全ての事に原則を持って取り組んで行きたいと思います。
コメントをお書きください