状態が正常でないとき、その人は聖霊に見捨てられ、心の中に不満を抱きがちで、動機は間違っており、怠惰で、肉の欲にふけり、心は真理に敵対する。そのすべてがサタンに由来している。状態が正常でなく、内面が闇で覆われ、正常な理知を失い、聖霊に見捨てられ、自分の中に神を感じられないとき、それはその人の中でサタンが働きを行なっているときである。一般的に言えば、内面に絶えず力があり、常に神を愛するなら、何かが起きたとき、その出来事は聖霊に由来しており、またその人が誰に会おうと、その出会いは神の采配の結果である。つまり、あなたが正常な状態にあるとき、また聖霊の偉大な働きの中にいるとき、サタンがあなたを揺るがすことは不可能なのである。それを基に、すべてのものは聖霊に由来しており、たとえ誤った考えをもっていても、あなたはそれを捨てることができ、それに従うことはないと言える。これはすべて聖霊の働きに由来している。どのような状況においてサタンは干渉するのか。あなたの状態が正常でなく、神に触れられておらず、自分に神の働きがなく、内面が乾いて荒れ果て、神に祈っても何も掴めず、神の言葉を飲み食いしても啓きや照らしを得られないとき、サタンがあなたの中で働きを行なうのは簡単である。言い換えれば、あなたが聖霊に見捨てられて神を感じられないとき、サタンの試みに由来する物事が数多く起きるのである。聖霊が働きを行なう間、サタンもずっと働いている。聖霊が人の内側に触れると同時に、サタンは人に干渉する。しかし、聖霊の働きが主導権を握り、正常な状態の人々は勝利することができる。これはサタンの働きに対する聖霊の働きの勝利である。聖霊が働きを行なう間、人々の中には依然として堕落した性質が存在する。しかし聖霊による働きのさなか、人々が自分の反抗心、動機、不純を見つけて認識するのは簡単である。そのとき初めて、人々は後悔を感じてますます悔い改めようと思う。このようにして、彼らの反抗的で堕落した性質は、神の働きの中で徐々に一掃される。聖霊の働きは特に普通のものであり、聖霊が人々の中で働きを行なっているときも、彼らは依然として問題を抱え、涙を流し、苦しみ、弱り、はっきり理解できないことが数多くあるのだが、それでもこの状態にあるとき、彼らは自分が後退するのを押しとどめ、神を愛することができる。そして涙を流したり、苦悩に苛まれたりしてもなお、神を賛美することができる。聖霊の働きは特に普通であり、超自然的なことは一切ない。大半の人は、聖霊が働きを始めるやいなや、人の状態に変化が生じ、その人の本質的なものが取り除かれると信じている。そうした考え方は誤りである。聖霊が人の中で働きを行なうとき、人に関する受動的な物事が依然として存在し、その人の霊的背丈は変わっていないのだが、聖霊の照らしと啓きを得るので、その人はより前向きになり、内なる状態は正常で、その人は急速に変化する。人は現実の経験の中で、おもに聖霊かサタンいずれかの働きを経験する。そしてこの二つの状態を把握できず、その違いを識別できないなら、現実の経験へと入ることなど問題外であり、性質の変化が不可能なのは言うまでもない。よって、神の働きを経験する上で鍵となるのは、そうした物事を見抜けるようになることであり、そのようにして、それを実際に経験することが容易になる。『言葉は肉において現れる』より引用
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