真理を追求することでのみ、性質の変化を遂げることができます。これは人が完全に把握し、理解する必要のある事柄です。真理を十分に理解していなければ、容易に過ちをおかして道に迷います。いのちの成長を望むなら、万事において真理を求めなければなりません。何をしていても、どう振る舞えば真理と一致できるかを探求し、それに反するどのような汚れが自分の中にあるかを突き止める必要があります。こうしたことについて、あなたははっきり理解しなければなりません。自分が何をしていようとも、そこに価値があるかどうかを考えるべきです。有意義なことならしても構いませんが、無意味なことはしてはいけません。してもしなくてもよいことについて言えば、放っておけるものならそうしなさい。そうでなければ、そうしたことをしばらく行ない、後で放っておくべきだと気づいたなら、素早く判断してすぐに捨てなさい。これがあらゆる行為においてあなたが従うべき原則です。中には次のように疑問の声を上げる人もいます。「真理を求めて実践するのがこれほど難しいのはなぜなのか。まるで流れに逆らって舟を漕ぎ、漕ぐのをやめたら押し流されるようなものだ。悪事を犯したり無意味なことをしたりすることのほうが、流れに沿って舟を漕ぐようにずっと簡単なのはなぜなのか。どうしてそうなのか」。それは、人の本性が神を裏切るものだからです。人の中ではサタンの本性が主導権を握っていますが、それは反動的な力です。神を裏切る本性の持ち主は、当然ながら神を裏切ることをとかく行ないがちで、肯定的な物事をするのは自然と困難です。それはひとえに人の本性と本質に左右されます。ひとたび本当に真理を理解し、心からそれを愛するようになれば、真理と合致する物事を行なう力が生まれます。すると、それが普通のことになり、努力もいらず楽しいことにさえなって、否定的な何かをするのはかなりの努力が必要だと感じるようになります。それはあなたの心の中で真理が主導権を握ったからです。人生に関する真理やどのような人になるべきかの真理、つまり公明正大で率直な人、正直な人、神のために証しをして神に仕える人にどうすればなれるかを本当に理解すれば、神に背く悪事を行なうことはできなくなり、偽の指導者、偽の働き手、あるいは反キリストの役を演じることも二度となくなります。サタンがあなたを惑わそうと、悪人があなたをそそのかそうと、あなたがそうすることはありません。誰に強制されようと、あなたはそのように振る舞いません。人が真理を得て、真理がその人のいのちになったとき、その人は悪を憎み、否定的な物事に対して内なる嫌悪を感じることができるようになり、悪事を犯すのが難しくなります。それは、その人の性質が変わり、神によって完全にされたからです。
自分の中に真理が本当にあれば、自然と正しい道を歩むようになります。真理がなければたやすく悪事を犯し、そうせずにはいられなくなります。たとえば、自分の中に傲慢さや自惚れがあれば、神に反抗しないようにするのは不可能であり、どうしても神に反抗せずにはいられません。意図的にそうするのではなく、自分の傲慢で自惚れた本性に支配されてそうするのです。自分の傲慢さや自惚れのせいで神を見下し、神を無価値なものと見なすようになります。そして自分を賞揚し、常に自分を誇示し、最後は自分を神の立場に置いて自分の証しをするようになります。最終的に、自分の発想や思考や観念を、崇拝すべき真理に変えてしまうのです。傲慢で自惚れた本性に支配された人がいかに多くの悪事を働くかをご覧なさい!自分の邪悪な行ないを解消するには、まず本性の問題を解決しなければなりません。性質の変化なくして、この問題の根本的解決は不可能でしょう。神について多少認識し、自分の堕落を見ることができ、傲慢さと自惚れが卑劣で醜いことに気づけるとき、あなたは嫌悪を覚え、気分が悪くなり、苦悩する。あなたは神を満足させることを意識的に行なうことができ、そうする中で安らぎを感じる。あなたは意識的に神に証しをすることができ、そうする中で喜びを感じる。あなたは意識的に仮面を脱いで自分の醜さをさらけ出し、そうすることで内面的に気分がよくなり、精神状態が改善したのを感じる。ゆえに性質の変化を求める第一歩は、神の言葉を理解して真理に入るのを求めることです。真理を理解してはじめて識別力を得られ、識別力があってはじめて物事を完全に理解できるようになります。そして物事を完全に理解してはじめて肉を捨て去ることが可能となり、神への信仰をもって正しい道を一歩ずつ歩めるようになるのです。このことは、真理を求める時に人の決意がどれほど固いかと関連します。本気で決意している人は、6か月から1年後に正しい道へ乗り始め、3年から5年以内に結果が生まれ、いのちの進歩を遂げつつあると感じるでしょう。神を信じているが真理を追求しないのであれば、10年信じても何ら変化を経験しません。最後は、これがまさに神を信じるということだ、以前に俗世で暮らしていたときとまったく同じで、生きていても無意味だと思うでしょう。これは、真理のない人生が空虚であることを真に示しています。何かしらの教義を語れても、依然として不快さと不安を感じるのです。神に関する認識があり、有意義な人生を送る方法を知り、神を満足させることを行なえるなら、それが真の人生であり、そのように生きることでのみ人生が有意義になると感じ、少しは神を満足させて喜びを覚えるには、そのように生きなければならないと思うでしょう。意識的に神を満足させ、真理を実践し、自分と自分の考えを捨て去り、神の旨に従い、それに配慮することをすべて意識的に行なえるなら、それが真理を正確に実践するということ、真理を真に実践するということであり、想像に頼り、教義や規則に固執していた以前の状態とはまるで違います。実際のところ、真理を理解せずに何かを行ない、教義や規則を守り、目標をもたず無闇に物事を行なうのは疲れることです。真理がなければ自由になれないというのは嘘でなく、真理があれば容易かつ幸せに物事を行なえます。このような状態の人が真理を自分のものにしている人、性質が変化した人なのです。
『キリストの言葉の記録』より引用
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