神による人の救いは、霊の手段や身分を直接用いて行なわれるのではない。と言うのも、神の霊は人が触れることも見ることもできないものであり、人が近づくこともできないからである。もしも神が霊のやり方で直接人を救おうとするなら、人は神の救いを受け取ることができないだろう。そして、もしも神が被造物である人の容姿をまとわないなら、人はこの救いを受け取ることができないだろう。なぜなら、ヤーウェの雲に近づける者が誰もいなかったように、人には神に近づく術がないからである。被造物たる人間になることでのみ、つまり自身がなろうとしている肉の身体にその言葉を入れることでのみ、神は自身に付き従うすべての人に直接言葉を働かせることができる。その時初めて、人は神の言葉を自ら見聞きし、そしてさらに、神の言葉を自分のものにすることができ、それによって完全に救われるようになるのである。もしも神が肉とならなければ、血と肉からできた人は誰もそうした偉大な救いを受けることができないし、誰一人救われることもないだろう。
鍾心銘(チョン・シンミン)は教会の指導者で、本分のためなら苦しみに耐えることができ、良心と責任感を兼ね備えています。腰に問題を抱えていますが、痛みに負けず本分を尽くし続けます。しかし病状は悪化し、検査の結果、脊椎の四番目と五番目がヘルニアに冒されていると判明します。すぐに治療を受けなければ、寝たきりになるかもしれません。彼女は少し不安を覚えますが、この病状は神の許しを得て生じたもので、神は自分に試練を与え、自分の信仰と献身を試しているのだと信じます。そして治療に協力して本分を尽くし続ける限り、神はきっと守ってくださると思うのです。しかし時間が経つにつれて病状はますます悪化し、いつ身体が麻痺してもおかしくない状態に陥ります。病気というこの試練を彼女はどう乗り越えるのでしょう? そして最後にどうやって喜びを得るのでしょう? 『苦しみから喜びを』をご覧になり、その答えを見つけてください。
ニネベの人々に対する神の心の変化には、躊躇や曖昧さが一切含まれていなかった。むしろ、その変化は純粋な怒りから、純粋な寛容さへの変化であった。これが神の本質の真の明示である。神は、業に関して優柔不断であることや躊躇することが決して無い。神の業の根底にある原理と目的はすべて明白かつ明瞭であり、純粋で完璧であり、その中に策略や陰謀は一切潜んでいない。つまり、神の本質には、闇や邪悪が一切含まれていない。神はニネベの人々の悪の行いが神の目に留まったため、ニネベの人々に対して怒ったが、この時、神の怒りは神の本質に由来するものであった。しかし、神の怒りが消え、ニネベの人々に再び寛容さが与えられた時に神が明示したのも、神自身の本質であった。この変化は、すべて人間の神に対する姿勢の変化に起因するものであった。この変化の間、侵害を許さない神の性質も、神の寛容な本質も、神の愛と憐れみに満ちた本質も変わることが無かった。人々が邪悪な行動を取ったり、神を侵害したりした場合、神はその人々に神の怒りを伝える。人々が真に悔い改めた場合、神の心は変化し、神の怒りは静まる。
滅びる、とは何を意味するであろうか。言葉通りに解釈すれば、消滅するということである。しかし、どのようにして消滅するであろうか。一体誰が町全体を滅びさせることができようか。当然、そのようなことは人間には不可能である。ニネベの人々は愚かではなかったので、この宣告を聞いてすぐに、その旨を理解した。ニネベの人々は、その宣告が神から伝えられたものであること、神が業を行うつもりであること、自分達の邪悪さがヤーウェ神の怒りに触れ、その怒りが自分達に対するもので、程なくしてニネベの町も自分達も滅ぼされるであろうことを理解した。ヤーウェ神の警告に対し、ニネベの人々はどのように行動したであろうか。聖書では、王から一般人まで、ニネベの人々の反応が詳細に記載されている。聖句には、「そこでニネベの人々は神を信じ、断食をふれ、大きい者から小さい者まで荒布を着た。このうわさがニネベの王に達すると、彼はその王座から立ち上がり、朝服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中に座した。また王とその大臣の布告をもって、ニネベ中にふれさせて言った、『人も獣も牛も羊もみな、何をも味わってはならない。
あなたは受肉の神を認め、言葉の肉における出現を認めると言うが、神の背後でなんらかの事柄、神の要求に反することを行い、心の中では神を恐れていない。これが神を認めるということか。あなたは神が言うことは認めるが、自分ができることを実行せず、神の道にも従わない。これが神を認めるということか。あなたは神を認めはするが、あなたの考え方は神に対して慎重であるだけでしかなく、畏敬では決してない。あなたが神の働きを見て認め、それが神であることを知っていても、あなたが生ぬるいままで、まったく変化しないのなら、あなたはまだ征服されていない人である。すでに征服された人は、自分ができることをすべてしなければいけない。また、たとえさらに高い真理に入ることができず、そのような真理が自分の手には届かないものであっても、心の中でそこに到達したいと願うのである。
完全にされるとは何を意味するのか。征服されるとは何を意味するのか。人が征服されるには、どういう条件を満たさなければならないのか。また、完全にされるには、どういう条件を満たさなければならないのか。征服することと完全にすることは、いずれも人間が本来の姿を取り戻し、堕落したサタン的性質とサタンの影響から解放されるように人間を完全にするのが目的である。この征服は人間への働きの過程の初期に行われる。確かにそれは、その働きの第一段階である。完全にするのは第二段階であり、それは終結の働きである。人間はみな征服される過程を経なければならない。そうでなければ、神を知るすべはなく、神がいることに気づくことはない。つまり、人が神を認めることは不可能になる。そして、もし神を認めることができないのなら、人が神に完全にされることも不可能となる。なぜなら、完全にされるための条件を人が満たさないからである。神を認めさえもしないのなら、どうして神を知ることができようか。また、どうして神を追い求めることができようか。
万物の長である全能神は、玉座から王としての権力を振るう。神は宇宙と万物を支配し、全地でまさに私たちを導いている。私たちはどの瞬間にも神に近づき、静かに神の前に出て、一瞬の時も逃すことなく、いつでも教訓を学ばねばならない。私たちの周りの環境から、人々、出来事、事物までを含むすべてのものは、神の玉座に許可されて存在している。どんなことがあっても心に不平不満を抱いてはならない。さもないと、神はあなたに恵みを授けない。病を患ったなら、それは神の愛によるもので、神の善意が必ずその背後にある。体は多少の苦しみに耐えることになるかもしれないが、サタンによる思いは一切抱いてはならない。病気の只中で神を賛美し、賛美の只中で神を楽しみなさい。病気に直面しても気を落とさず、何度も繰り返し求めて諦めることがなければ、神はあなたに光を当てるだろう。ヨブの信仰はどうだったか。全能神は全能の医者なのだ。病の中に留まれば病気になるが、霊の中に留まれば健やかになるのだ。あなたに最後の息があるかぎり、神はあなたを死なせはしない。
終わりの日における神の働きでは、ヨブの確信さえも超える、途方もなく強い確信が必要とされる。確信がなければ、人は経験を得続けることも、神によって完全にされることもできない。大いなる試練の日が来るとき、教会を去る人がそこかしこにいるだろう。それまでの追求が極めて順調で、なぜ信仰を止めるのかよくわからない人もいるだろう。あなたに理解できない様々なことが起こり、神はしるしや不思議を表わさず、超自然的なことを一切行なわない。こうしたことは、あなたが揺るぎなく立てるかどうかを確かめるのが目的であり、神は事実を使って人を精錬するのである。あなたはまだそれほど苦しんでいない
兄弟たちよ、目覚めなさい! 姉妹たちよ、目覚めなさい! わたしの日は遅れることはない。時は命であり、時を取り戻すことは命を救うことだ。その時はもう遠くない。大学の入学試験に落ちたなら、勉強して何度でも受け直すことができる。だがわたしの日には、これ以上の遅れは許されない。覚えておきなさい。もう一度言う、覚えておきなさい。わたしはこうした善き言葉で、あなたに強く求める。あなたがたの目の前でこの世の終わりが始まり、大きな災害が急速に迫っている。あなたがたにとって、大切なのはいのちか、それとも寝ること、食べること、飲むこと、着ることなのか。そうしたものを比較し吟味する時が来たのだ。これ以上疑っていてはならず、確信することを避けてはならない。
古守城は中国の家庭教会の牧師です。長年にわたり主を信仰し続けており、常に説教の事におもいを巡らせ、周りに福音を説き続けてきました。彼は福音を説いたために逮捕され、12年間服役しました。刑務所から出所した後も、古守城は教会で働き続けました。しかしながら、全能神の王国の福音が古守城の属する教会にもたらされたとき、彼はそれについて求めたり調べたりせず、頑固に彼自身の思い込みと決めつけにこだわって終わりの日の神の働きを非難し、思い込みと誤謬を広めるためにあらゆる手を使い、信者が真実の道を受け入れるのを妨げようとします。